ある日男はパン屋さんへパンを買いに出掛けた。
男はフォカッチャ(バジルソースとトマト)をひとつ選ぶと、あとひとつ何にしようか店内で決めかねていた。
そのとき、そのパン屋さんの客層ではない客がトレイとトングを掴んだのが目に入ったが、あとひとつを決められない男は、とりあえず3番目の客としてレジに並んだ。
男は順番を待っている間、「あとひとつ何か食べたいなあ。」と店内を見渡しながら後ろのパンに目をやったとき、すでにあの客が男の後ろに並んでいた。
男が何気なくその客のトレイに目をやると、2つのアンドーナツが鎮座していた。
パン屋さんに入ってからわずかな時間、彼に迷いはなく、ほかのパンには見向きもせず、アンドーナツの陳列棚へ最短ルートで進み、アンドーナツをふたつ掴んで男の後ろに並んだのだ。(まさか、常連さん!?・・)
前の客に振り返られ、自分の買ったパンを凝視されるのはかなり嫌な気分だと思うが、男は後ろの客のアンドーナツから目が離せなくなっていた。
そうなのだ。男があとひとつ食べたいと思っていたパンはアンドーナツだったのだ。
健康と言う名のもとに糖質と油を組み合わせたパンを無意識のうちに避けてきた男は、自分の本当の気持ちに気付かされた。
そして男は客の後ろにあるアンドーナツの棚へ手(トング)を伸ばし、自分のトレイにアンドーナツをひとつ乗せた。
そして小声で「これ、うまいんだよな・・・」と呟いた男の独り言に、後ろの客が「おいしいんだよね、これ。中にあんこが入っていて。」と弾んだ声で答えてくれたが、そのとき男は黙ってうなずくことしかできなかった。
本当は何を選びたいのか心の中でわかっている自分を裏切り、揚げパン系のツイストドーナツとか好きなパンを見て見ぬふりをしてレジに並んだ男にとって、後ろの客のアンドーナツだけが乗っているトレイは男に好きなパンを買う勇気を与えるのに十分だった。
背中を押してくれてありがとう。
前に並んでいた変な客の独り言に笑顔でこたえてくれてありがとう。
店に似合わない客だなんて思ってすみません。
アンドーナツの常連さんのおかげで本当に食べたいパンを食べることができました。
アンドーナツはとてもとてもおいしかったです。
いつかパン屋さんでまた会う時があったら、男のトレイにはアンドーナツが乗っていると思います。
そのときはアンドーナツ好きな者同士として、男のほうから「これうまいよね」と話しかけますね。
でも、常連さんのお昼ごはんが毎日アンドーナツふたつだとしたら、おいしいけれども健康には気を付けてください。
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